虚言ネットワーク

※このブログはフィクションです

駆け抜けて日常 #5

自分らしさを他人に強要してしまったのかもしれない。

ある人の話を聞いていて、全く納得が出来なかった。この腑に落ちない感情は大概にして一過性のモノであることは理解していたとしても、物申したくなる。とりわけ、自分のことに関しては。

友達から借りたカメラを、我が物のように構える。レンズ越しの被写体は笑っている。多分、私にとってこの行為には全く意味がない。意味のないことなんてないんだよ、と誰かに言われたとしても意味がないという自覚があるのだから、その問いかけにも無論、意味がない。このやりとりに意味を見出すことから会話が始まるというのに。時折、自分が創作意欲に溢れた人間であるという風に暗示したくなる。意味はないと解っているのに。総括すると、私は自己対話の権化である。まばたきのテンポでシャッターを切る。上手に撮れていたかどうかは確認すらしていない。

感情というモノは、折り合いがつかない。すぐにイライラしてしまう私なんかまさにその典型で、帰り道に野良猫が徘徊しているであろう路地に草を貪り彷徨うことなんかしょっちゅうである。自分の才能のなさを忘れ、自分よりもか弱きモノに愛を注いだフリをすることで何とかバランスを保っている人間のうちの一人である。

気がつくと、か弱きモノは向こうへと走り去っていた。猫のいない路地裏に背を向け屈む一人の男。遠くから眺めれば哀愁たっぷりのワンカットかもしれないが、カメラを回している人間などいない以上は自身でその余白を塗り潰していくほか無い。

向こうで猫がケンカをしているようだ。毎日をまったりと過ごす(過ごしているように見えると言う方が的確か…)彼等にとっての青春は縄張りの中で完結する。あの海の向こうにも沢山の陣地があることを彼等は知らない。向こうは向こうで向こうの猫が縄張り争いをしているだろうから、新規参入は難しいか。あれ…?やっていることは私たちも大して変わらないのではないか…?明日はまったりと過ごそうと決心する。

その明日になると、あの感情はもうどこかへ行ってしまったのか…?何で私はあんなにも振り回されていたのか…?と、不思議なくらいに昨日の自分を見失ってしまう。そして、昨日与えられた指針に基づく今日に恐怖を覚えてくる。

これが生活。